睡眠中の“掻く”動きをApple Watchで測る「Itch Tracker」、日本発でネスレが開発

2017.05.25
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痒いところがあれば何気なく、そこを掻いている私たち。強く掻きむしったりすると炎症が起きたり傷ついたりするだけでなく、そこから感染症にかかるといったことが起こりかねませんが、皮膚炎に感染しているかどうか本人が気づいていないことがあるそうです。そこでネスレグループが開発したのが“痒み”を客観的に判定するためのスマホアプリ。無意識に皮膚を掻いてしまう睡眠中の動きを測ることで判定します。どんな仕組みなのでしょうか。

どうやれば“痒み”を客観的に評価できるのか

米Appleが開発・販売する時計型のウェアラブルデバイス「Apple Watch」は、みなさんもご存じでしょう。日々の行動をトラッキングしたり、スマホと連携しメールなどが届いたことを知らせてくれたりします。このApple Watchを身に付けて眠れば、どれだけ“痒み”に悩まされているかを表示できるスマホ用アプリが登場しました。「Itch Tracker」がそれです。

Itch Trackerの利用者はまず、iPhone上でアンケートに答えます。その後がApple Watchを付けて寝るだけです。測定結果は、就寝時間や起床時間とともに、掻いていた時間帯などが帯グラフで表示されます。検知された掻き時間のほか、推定される両腕での掻き時間とその割合、掻き動作が激しいかどうかのレベルなどが一目で把握できます。

開発したのは、ネスレグループで皮膚や髪、爪などの健康ニーズに対する製品を手がけるネスレ スキンヘルス。日本では、ニキビ治療薬を「プロアクティブ」ブランドで販売している会社として,ご存じ方も多いでしょう。Itch Trackerの実際の開発に携わったのは、スキンヘルスとヘルシーエイジングのためのオープンイノベーション(共創)拠点である「SHIELD:Skin Health Investigation, Education and Longevity Development(シールド)」の日本拠点。アプリケーションのプログラミングには、医療関連のモバイルアプリ開発に強い日本のベンチャー企業C2が携わりました。SHIELD自体は2015年に米ニューヨークで活動を開始し、2016年には中国・上海にアジア初の拠点を設立しています。

自己申告による“痒み”では正しく診療できない

なぜ痒みを客観的に測定する必要があるのか。またApple Watchでどのようにして判定しているのか。こうした点について、開発に携わったネスレ スキンヘルスのシールド アジアパシフィック メディカルディレクターの生駒 晃彦 氏が、ヘルスケア分野のIT関連イベント「ヘルスケア IT 2017(第2回)」(主催UBMジャパン)の特別講演に登壇し説明しました(写真1)。生駒氏自身、皮膚科の専門医です。


写真1:ネスレ スキンヘルスのシールド アジアパシフィック メディカルディレクターの生駒 晃彦 氏

生駒氏によれば“痒み”は、不調を訴える身体からの信号として軽視できません。「皮膚の痒みは掻くと治まるかもしれない。だが皮膚に炎症を起こし、それが痒みを引き起こす原因にもなる。こうした悪循環に陥ると、傷跡が残ったり感染症にかかったりしてしまう。引っ掻いたたばかりに痒みに苦しむことになり、生活の質(QoL:Quality of Life)が低下してしまう」からです。にもかかわらず「痒みの評価はこれまで難しかった」(生駒氏)といいます。

痒みの評価には一般に、「VAS(Visual Analogue Scale)」や「NRS(Numerical Rating Scale)」という方法が用いられています。ただ、いずれも患者自身が痒みの強さ数値で表すという“自己申告”を前提にしており、患者が意識していない痒みは評価できないのです。なかでも、睡眠中の痒みは意識下にないため、評価できませんでした。「もっと客観的に、かつ簡単に評価できないか」という問題意識から開発されたのが、Itch Trackerというわけです(動画1)。

動画1:「Itch Tracker」の紹介ビデオ

掻き動作を正確に評価するアルゴリズム開発が最大の課題

Itch Trackerの基本的な考え方は、身体の動きから掻く動作を検出し、そこから痒みを数値化することです。これは、「痒みの研究で世界的に有名な江畑 俊哉 先生の研究」(生駒氏)に基づいています。国際かゆみ学会理事でもある江畑先生の研究による、加速度圧の計測による睡眠中の身体の動きから睡眠障害判断する「アクチグラフ」を応用し、掻き動作を評価しています。今回のアプリ開発には江畑先生の協力も得ました。身体の動きを測るためのデバイスにはApple Watchを採用しました。「装着が容易で就寝中も邪魔にならないほか、高性能な加速度計を搭載している」(生駒氏)からです。

ただアプリ開発で最も大きな課題だったのは「掻き動作を正確に評価するアルゴリズムの確定だ」と生駒氏は明かします。就寝中、私たちは寝返りを打つなど様々に動いています。そのため「掻き動作と、その他の動作を正確に区別できなければ、掻き動作を正しく評価できない」(同)のです。結果的に、このアルゴリズムの開発に1年という時間を要しました。

アルゴリズムは、就寝中の動きを撮影したビデオ動画とApple Watchの検出記録を突き合わせることで確立していきました。具体的には、アトピー性皮膚炎の患者さん5人にApple Watchを装着してもらい、病院で就寝してもらうという方法です。ビデオ動画とApple Watchの検知結果と比較し、「陽性的中率」と「感度」を算出しています。陽性的中率とは、Apple Watchで検出された掻き動作件数のうち、ビデオ動画でも掻き動作として記録された割合です。感度は、ビデオ動画に記録された掻き動作件数のうち、Apple Watchでも検出されていた割合になります。検証の結果、「陽性的中率は90.2%、感度は84.6%」(生駒氏)という結果が得られました。

なお検証試験では、Apple Watchを患者さんの両腕に装着して実施しました。というのも「医学界では『掻き動作は利き腕でするものだ』という認識があった」(生駒氏)からです。ですが、今回の試験では、利き腕による掻き時間と利き腕でない掻き時間に有意差はないことが分かりました。両腕に装着したApple Watchの掻き時間の合計は、片腕のApple Watchが検知した掻き時間のおよそ3倍になることも分かりました。こうした実証結果に基づきItch Trackerでは、片腕に装着したApple Watchだけで両腕での掻き動作時間を割り出しています。

痒みの治療・評価方法の研究に役立つ

Itch Trackerは、Appleが医療研究用アプリのために提供するオープンソースのフレームワーク「ResearchKit」を使って開発されています(動画2)。ResearchKitで開発したアプリケーションでは、利用者の計測データやアンケートデータなどがデータベースに集積され研究者に公開されます。これらのデータをどんな研究に提供するかはデータの保有者が決められます。

動画2:「ResearchKit」の紹介ビデオ

生駒氏は「ResearchKitを利用することで、研究者はデータを解析し痒みの研究に役立てられる。掻き動作を客観的にとらえたデータと、患者の自己評価による痒みの程度の相関を調べるなど、痒みの治療や評価方法の研究がさらに進んでいく。それがQoLの向上につながっていく」と、今後のデータ活用に期待します。

スマホアプリやApple Watchと聞くと、個人の楽しみや効率化のためというイメージが強いですが、ResearchKitを使ったアプリを提供する医療機関や研究グループも増えているようです。個人向けのそのデバイスの広がりが、私たちの県境を左右する医療分野にもデータという新たな研究対象を生み出しているのです。

執筆者:中村 仁美(フリージャーナリスト)

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